努力の尺度 本当に頑張ったといえるのか

「僕は頑張っている」
何に対しての頑張っているだろうか?
どれくらいの努力量が頑張っているのだろうか?
そんなテーマ

努力量

資本家を目指す普通の人に絶対に必要な段階がある。
丁稚奉公、下積み、修行
呼び方は様々だが、そう、努力の期間だ

精進高校時代

精進は

僕はバスケットボールがしたくて地元の強豪校へ進んだ。
3年間毎日お盆も正月も時間的には全て捧げたつもりで、
バスケットボールをした。

もちろん、周りに負けるつもりもなかったが
現実は厳しいものだ。

バスケットボールの実力で学校に入学したわけではない僕は
勉強で赤点をとるわけにもいかなかった。

スポーツ推薦枠の同級生は

推薦枠で高校に入学した同級生は
それこそ生活のすべてをバスケットボールに捧げていた。

学校での順位は下からすべてを独占。
当然授業は全部寝ている。

下宿は高校から徒歩3分
寮母さんもついてご飯は出てくる。

本物の生活のすべてを
バスケットボールに捧げていたわけだ。

その後の人生では大したことにならなかったが
高校の、あの、バスケットボールでいえば

明暗はしっかりと別れていた。

努力したかは基準次第

僕の高校時代はこうして過ぎていった。
大学では胸を張って言えるが何も頑張っていない。

友人は運動部

友人は胸を張って言っている。
「俺は大学で部活を頑張った」と。

よくよく話を聞いてみる。
練習は週に3回。
バイトは毎日する。
麻雀が趣味。

僕は耳を疑った。

何を頑張ったのだろう??

彼は冗談で言っているのだろうか?

いや、そんなはずはない。
目は本気だ。

基準によって変わる努力認定

彼にとっては頑張った。
でも、インターハイに出るまで頑張った僕からすると
へのツッパリにもならんですよ。

僕の部活の努力量だって、
高校のスタメンの同級生からすると
へでもない。

そんな彼の頑張りだって八村塁からすると
何でもない。

きっとそういう図式に落ち着くのだろう。

「頑張りました」程、信用のならない言葉はない。

純粋な努力としての数値と結果がそこには横たわるのみだ。

結果だけがすべてを物語る

マッキー
マッキー
純粋な努力としての数値と結果がそこには横たわるのみだ。

大事なことなので二回言った。

ふかポン師匠

例えば僕はぼろ不動産での成り上がりを目指して、ぼろ戸建てのリサーチを行っている。

ふかポン師匠と合わせていただく機会があったのでお話を聞くと、

twitterよりもスマホを触る時間よりも

物件情報をあさっているという。

基準はやはり僕よりも高いし、

努力しているとかいう言葉はやはり何の意味もなさないことがわかる。

ちなみに本人はとてもやさしいのでフォロー推奨。

ストイックな姿勢に敬意をこめて

負荷ポン師匠ですね。

投資家大家さん

僕はこの10月から大物不動産投資家大家さんの

ビジネスを微力ながら勉強かねてお手伝いさせていただいております。

年収も億越えを達成しており、

もう人生安泰なのだろうかと思いきや、

彼は新規事業で毎日てんてこ舞いしながら、

時間がないので自己物件(収益物件)に対して、

平日の夜中に庭の手入れや、

共用部のお手入れをされているのでした。

そういう努力がデフォルトであることや、

自分の努力量の認識、

頑張っているの意味がそもそも違うことを

自覚させてくれるのでとても助かっています。

結局努力、頑張るとは

良くも悪くも口では頑張ってます、

やる気はあります。

そんなことは言えます。

でも、結局は本人の主観でしいです。

明確に成功している人に言えるのは

努力の基準が高く当たり前の基準も今の僕からすると

以上に高いということです。

成功者の努力をきっちりと定量化してみると

なみの頑張ったでは足りないことが分かるかと思います。

マッキー
マッキー
人生勉強ばっかりですわ