小話

偏差値が活きるころ

高校まではしゃくし定規のように偏差値だけを追い求めることに終始する。やがて大学に入ると無限とも思われる自由な時間(モラトリアムともいう)が訪れ、今まで問われなかった質問にぶち当たる。

「いや、もう偏差値はないの?」 

ないのである。今まで得点のように求めていた定規=偏差値は突如として取り払われ悠久の自由時間が大学生には与えられる。

さて、人が何によって評価されてきたか思い返してみよう。
幼少時代、「かけっこが速い子」うん、身体的に恵まれている子。よくわかる。
中学生、体育のうまい子。このあたりから不良といわれる人物がめきめきと頭角を現し始める。女子は部屋の隅で誰がかっこいいのか派閥が出来上がり始める。
高校生時代、部活の強豪生徒、不良。闘争本能を掻き立てるものばかり。とにかく強そう、いや結果を出している子がもてはじめる。僕は強豪校バスケットボール部の弱者であったがチームのエースなんかもう歩くちんちんだった。「昨日は夜まで疲れたから腰ががくがく」よく聞いた話。彼は結局大学もスポーツで進んで下半身関係でやらかして退学。残念。

あれ、偏差値は?

お気づきだろうか?もてるという1点においてみると今まで大学に入るまでもてたためしがない。では、そこからはどうだろう。

大学時代、オシャレな男子。有名大学生。これくらいかな。いわゆる遊んでいそうな男子に人気が集まり始める。有名大学生、やっと偏差値が日の目を浴びた。女性たちはこぞって人気のあるものに価値を見出す。本当にそうだろうか?

大学を卒業したら?

有名企業、社長、スポーツ選手、あとは。。。。偏差値?  ないない。
つまり偏差値が役に立つのは大学の4年間かな?有名企業に就職する難易度を考えると社会人になってからも多少は役に立つ。ここで尺度になっているのは多分お金、お金はリアルにサバイバル能力を見られている気がします。

結局偏差値は?どこで使うの?

幼少期から一貫してもてるか否かを考えるときは他者と比べてサバイバル能力にたけているかの一点で見られている。子供同士の間では法の整備もままならず戦闘能力そのものが生き残りに直結している。それは高校性ぐらいまで続く。かけっこでは走力が可視化され、不良の間では暴力で順位付けされ、バスケットでは点数でデータ化されそれぞれの戦闘力を可視化される。

偏差値はなぜ使われない

生き残るのにあんまりぴんと来ないから。
お宅の息子さん偏差値70なんですって~。もてそうですね。
ピンとこない。偏差値はサバイバル能力を表すのに絶好な指数のはずなのにピンとこないのである。
我々の頭はバカなのだろう

もてるに置き換えているからじゃあない?

今回は偏差値を見るときにもてるのか否かだけを考えて偏差値を切ってみたんだけど、この記事では最初に

「人が何によって評価されてきたのか=男子が何によってもてるのか」

に問題の置き換えをしているからだ。僕もそう思う。成功とは何だろう。追い求めるものとは何であろう。自分が求める定規にあった得点の取り方を探すべきであろう。

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