小話

人間は自己犠牲の精神よりも自分の快が大切である。免許返納に見る。

最近では免許返納の話題がよく起きております。返納を受け入れられないお年寄りたちと、返納してほしい若者たちの間に大きな軋轢が生まれているような気がします。

若者とお年寄りの応酬を見ていて思うのは結局人間は自分の快から不快への方向に動くことはできないということです。どうしてもだめだと分かっていても、自分の快を優先してしまう生き物なのです。

それはどの生き物でも恐らくそうです。明日の報酬よりも目の前の報酬、他の人の利益よりも自分の利益、というように働いてしまうものなのです。

人間は自身の快を優先してしまう

どういうことかというと、自身の交通手段である車をなくしてしまっては歩いたりして移動が困難になる。だから自分の生活が不便になる、そのことが嫌で事故を起こす可能性が一抹あっても免許返納には踏み切らないのです。

事故を起こして他人を巻き込んで事故を起こす可能性があろうとも、歩いて移動するという行為自体は耐えられないのです。これは以前説明をした、マクロで見た最低戦略と、ミクロで見た最適戦略の話にもつながることかもしれません。

日本社会のことを考えると免許返納をして、運転をやめた方がいいのかもしれない。でも、我が身可愛さに自身の最適を考えると他人を巻き込む可能性があっても免許の返納には応じたくない。こういうことです。

そもそもの権利で言うと免許を返納なんて言うのはナンセンスですし…
もともとあった権利を見らに起こりうるミスのために放棄するなんて意外と前代未聞です。

人類は快へと向かい続けてきた

人間の生活は便利になる一方です。火の発明以来、人間の生活が一度でも不便に傾いたことはありません。時代は常に人間に快を提供するようになってきました。火の発明、車の発明、洗濯機、エアコン、ラジオ、テレビ、インターネット、パソコン、スマホ…これからも快に向かい続けるでしょう。

その中で一つでも人類が自己判断でほかの影響を考慮してやめてこられたものがあるでしょうか?一つもないはずです。人間は一度生活レベルや、ものを良いものに変えてしまうと、元の生活には戻れない話はよく知られています。

老人だけに車の運転をやめさせようなんて言うのは意外と無理なお願いだったりするのです。快から自主的に不快へと生活を変えるなんて言うのはよほど自身の生活に余裕があるか、またはとても頭の良い人間でないとできません。

生き物としての本能に反しているからです。理性が本能を上回る人にしか不可能です。そんな中で免許を返納した人には僕は尊敬の念がわきます。すごいと本心から思います。

どうすれば免許返納できるのか?

じゃあ結局どうすれば免許の返納ができるのかを考えてみたいと思います。それはずばり、タクシーを乗り放題にしてしまうか、または老人自身が車を運転しなくてもよいくらいに大金持ちになるしかありません。

車での移動の便利さを知ってしまった人類、車がないと生きていくことが難しくなってきた人類にとって車を取り上げられるというのは、極論、「じゃあ死ねというのか?」みたいな状態になります。

実際僕の親類は、何度も事故を起こしており親族から返納をしろと言われておりますが、免許返納するくらいなら死んだほうがましと言い放ちました。

マッキー
マッキー
信じられないくらい自己中

本当に他人のことが見えていないんだと思いました。でも、人間の本性だと思いました。自身が不快になるくらいなら他人を殺そうとも構わないという姿勢の最たる例です。

そうなると、社会が彼を殺すか、彼がほかの人を殺すかの2択になるのです。現行の世の中では、社会はまだ彼を殺すことはしないので、彼がほかの人を故意にではないにしろ殺すことでしか、運転をやめさせることができません。

彼は運転手やタクシーを呼べるほどのリッチではないので、社会は彼から免許を取り上げてなおかつ、生きられる方法を模索する以外にないのです。なんだいです。

まとめ

人間だろうと生き物である。自己犠牲のもとに、全体のことを考えて快から不快へと動ける人間はわずかしかいない。お金で解決するか、仕組みで殺してしまうしか免許返納を促せる仕組みは存在しないのである。

マッキー
マッキー
難しい社会問題

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